madorismの間取りをつくる建築家
原宏佑(はらこうすけ)
鎌倉市在住の建築家。

関東近辺で約3年の土地探しを経て、30代で北鎌倉に自邸を建築。家づくりを通して、物件探しに大ハマり、今でも鎌倉の物件情報に目がない。「鎌倉で次住むならここが一番だ!」を探し続けて、さすがに2軒目は自身では難しいので、誰かに実現してほしいと心から思い、間取りにストーリーを込めて日々作成している。

都市に住むこと、田舎に住むこと

利便性の高い都市に住むのか。
自然に溢れた田舎に住むのか。

一体全体、何がその選択の決め手となっているのだろうか。

まわりがそうだから、都市に住んでいる。
仕事の都合もあるかもしれない。
いやいや、都市にも自然はたくさんあるよという意見もあるかもしれない。
それは昔の話で、田舎も最近は便利になったよと。

きっと、様々な言い分があるはずである。

もしかすると、周囲の環境が今の選択を決定させているのかもしれない。

とはいっても、そもそもの社会経済のスピードが異なるため、流れている時間はまるで違う。果たして、価値観が違うという一言で済ましてよいのだろうか。

一方は、時間を消費し、もう片方は時間を蓄えている。

時を追うのか、時を待つのか。
間が無いのか、間が有るのか。

虎視眈々と流れている時間の価値を見極めて、それぞれの一瞬を掌握し、両者を分け隔つ感覚を、そっと遠くから眺めてみる。

両者に共通することは何か。

重要な要素は何か。

なぜ選んだのか。

結論は、どっちも必要。

ただ単に、どちらに重きを置くかといった点が異なるだけに過ぎない。どうにせよ、結局は良い塩梅になるようにしかならない。重要なのはバランス感覚である。

一体、何によってその繊細な線引きが行われているのか。

個々人の価値観。
人生観。自然観。生活観。歴史観。

大海原でさえ狭いと感じる人もいる。
地球を見て小さいと感じる人もいる。
たった一輪の生花に森羅万象を感じる人もいる。

視点の切り口はいくらでも考えられる。
ただ、どれも文脈がある。

時間の流れがあってこその価値観であって、それ単体では価値観など有り得ない。

その基準となる線引きのラインは、いつの時点か。ということで必ずなんらかの違い、ズレがあるはずである。

対立する両者は交わることがなく、常にアンヴィヴァレントな状態が保たれている。

絶え間なく変化し、保たれる、動的平衡。

結局のところ、本質は変わらず表裏一体のものであるため、その表面的な言い回しが変わっているだけに過ぎないが、その先に一体どこに行き着くのか。

いつも同じ思考をしているはずなのに、違う結果になるのは環境が変わったからなのか。自分が変わったからなのか。

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